日本人イスラーム教徒の雑記

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江戸時代末の緊縮財政~『想古録』に見る日本的「改革」像

さて、ブログを開設するにあたって、今回は『史伝閑歩』という書籍から話を始めたいと思います。

この『史伝閑歩』は森銑三という、いかなる高等教育機関にも所属しなかった在野の歴史学者が著述した、江戸後期から近代にかけての歴史を扱った随筆集です。

特に前半の七編は『想古録』という逸話集を引いて、徳川家斉水野忠邦ら、幕政も終わりが見え始めた時期の政治家たちを扱っています。

この随筆が執筆された当時、『想古録』の編者は不明ということだったようですが、現在では研究も進み、著者が誰なのかも判明しているようです。

さてさて、さっそく『史伝閑歩』の世界に足を踏み入れることにしましょう。

今回は本書で「吉宗将軍と鰹節」という表題をつけられている項目に注目します。

その名の通り、徳川幕府八代将軍・徳川吉宗についての逸話が掲載されているのですが、まず一つ目を原文で掲載します。長いので一部省略を挟みます。

 

五、六、七代将軍は、徳川累代の制度を破りて、華美豪著を究められければ、官紀内にみだれて(漢字が難しく変換不能)士風外に荒み、照祖以来の金誠玉律も、楓山宝蔵の反古紙と変じ去れり。

しかるに(略)六代は五年にて薨去せられ、七代もまた、在職僅かに四年にして世を辞せられ、その跡を継がせられたる八代公は、三代以来の名君にて、中興の偉業を成就せられたる非凡の英傑にて在らせられければ、油尽き風急にして、今や暗黒世界に陥らんとせし徳川名族の残燈を、公の果断によりて、再び往昔の煌々たる大光に復せられたり。

公の紀州より入りて、征夷の栄職を拝せらるるや、(略)内部の規律整頓するや、始めて大政の改革に着手せられ、その節検令を発布せられたる時は(中略)通邑都会の豪農豪商に至るまで、絹布を脱ぎて綿衣を服し、全国の形勢一変して(略)質素なる世態に復帰せり。(略)

節倹令の実行せらるるや、是れまで華美に誇りたるもの、贅沢品を弄びたるもの、衣器飲食の商業を営みたるものは(略)幕府の新政の過酷なりけるを怨望しけるが、芝居の役者も綿衣を廃し、吉原の遊君も綿服を着し、勤倹実行の結果は、数年の後に着実(略)なる美俗を養い来りて、(中略)新政の恩沢を感称するに至りける。(引用終わり)

 

これは岡本近江守による、八代将軍・吉宗公の享保の改革について礼賛する文章です。

吉宗の改革は、いわゆる緊縮政治とは若干趣を異にし、新田開発など新たな公共事業を成功させた点で寛政の改革天保の改革とは違いますが、この証言が行われた時代はすでに徳川政権も斜陽の時代(岡本近江守、生1767年、没1850年)となっており、幕府中興の祖たる吉宗への憧憬は強いものだったと想像でき、ために実態にそぐわない過度の吉宗神格化が発生したものといえます。

また岡本近江守もまた、この記事の題名の通り緊縮政治こそが幕政を安定させるという信念を持った人物であったことがわかりますね。このあたりの考察は、この後で田沼政治を引き合いに出して行うことにしましょう。

いまひとつ、毛受貫助という人物による吉宗評を引いてみましょう。

これは将軍お膝元・江戸城内における鰹節の消費を抑えた吉宗の逸話です。

これもやはり緊縮財政の功徳と吉宗礼賛を唱える文章となっています。

将軍御膳部の料理に使用する鰹節は、毎日二十本余の大節を要せしと云えり。有徳公(吉宗)このことを聞し召し、或日其掛吏 を午前に召されて、御今の縁先にて搔かせられけるも、瀬くさん本を削りえたるに過ぎざりければ、公は苦笑せられ、さればなり、此の余は無駄に帰せしなり。今日は一日五本づつと定め、なるべく無駄の出ぬやう注意すべし、との恩威両つながら抜け目なき御意ありて、掛吏の面々を、なんの御咎めもなく下げられけるとぞ。(略)

有徳公の御世となりてより悉皆其積弊を改革せられけるに、其後また田沼閣老(意次)の華美を好みて、有徳公の蓄積を一掃し、楽翁公(松平定信)の寛政の整理も、沼津閣老(水野忠友)の豪著に打破せられ、今や財政乱れ(読めないのでわかりやすい語に置き換えました)、将軍毎日の御用鰹節の如きも、前代未聞の本数を費やすに至りけるとぞ。

 出ました、田沼意次。この文中やはり「華美を好んで財政を乱した」という評価を下されています。

田沼政治の特徴として、大規模な公共事業を行ったことがひとつに挙げられるでしょう。これは前述のとおり、享保の改革も(規模は小さいながらも)同様の路線を採っており、また幕閣による商業の統制を図るため「株仲間」(カルテル)を組織し、上納金によって幕府財政の収入増を企図した点も共通項のひとつです。

ではこの毛受某はなにゆえ田沼政治と享保の改革を対置させたのかといえば、結局のところ「大衆の受けが良いか悪いか」で決めてしまったように思えます。

田沼についての悪評は当時から大きいものでした。それには政敵・松平定信らの暗躍もあったし、田沼意次の息子・田沼意知が幕閣の重役におり、権力の世襲をうかがわせる様子もあったためでもあり、いまひとつは商業資本の育成の結果もたらされた、庶民の介入しえないところで行われる金権政治への妬みもあったでしょうね。

いずれにしろ幕政末期の諸改革はいずれも「庶民」目線を欠いたために失脚する事例が多いようです。

さて、田沼政治を「改革」と呼称しないのはなぜでしょうか。

それはひとつには田沼時代は天明の大飢饉のような大規模な天災、公共事業の失敗など不運続きだったこともありますが、いまひとつは日本人の意識の底流にある、商業主義は腐敗であり、緊縮財政こそ改革である、という漠然とした改革観があったからではないでしょうか。

 

後年、明治政府の産業育成政策なども同様に庶民の怨嗟を買ったように、「田沼改革」(あえてこう呼びます)の重商主義政策は近代的に過ぎたのです。

明治政府の近代化政策も、維新そして士族反乱の鎮圧のように、武力を用いた力業によって成し遂げられた側面は大きかったわけですが、斜陽の幕府とはいえ、いまだ太平の眠りのなかにあった日本にあって、旧来の制度のなかで推し進めようとした田沼改革は、その旧態然とした徳川体制と比してあまりに先進的だった。

その点、寛政の改革天保の改革は、従来の日本的改革像に当てはまるために、「改革」の称号を冠された、といえるでしょう。

では田沼意次を政権の中枢から追いやり後継者となった松平定信よる寛政の改革は、どのような点で田沼時代と異なったのでしょうか。

寛政の改革の眼目としては政治面では米価の高騰を避けるべく酒造の制限、重商主義から重農主義への転換等。文化・学術面についても朱子学の国教化と陽明学の禁止、極東への進出を続けるロシアの脅威を説いた林子平らの弾圧、風紀是正等、けっきょく緊縮政治の枠をでないものでした(商業の発展した田沼時代に多く発生し、江戸市中にたむろしていた宿なしたちの帰農政策、人足寄場における職業訓練に代表される失業者対策などもありましたが)。

天保の改革も基本的な政策はやはり緊縮政治であり、田沼時代のような日本経済史の転換点と呼べるほどの劇的変化は見られなかった。

 

ここまでのまとめとして、「田沼改革」も「松平定信改革」も「水野改革」のいずれもが、方向性こそ違えど幕府財政の蓄積のため「庶民目線の改革」を行わなかったために失敗した、といえるでしょう。

ましてこの江戸末期は災害や飢饉の続発した時期で、庶民の大多数を占める農民たちは困窮し一揆が多発する世情にあって諸改革、とりわけ田沼改革の重商主義政策を実行するには環境が整っていなかったことは田沼にとって不幸であったというしかない。

そして庶民というのは実に心変わりの激しいもので、商業主義が駄目なら緊縮財政へ、それが駄目になると「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき 」なんて落首をつくってみたりと、漠然とした「緊縮政治」への好意と、これまた漠然とした「商業主義」への嫌悪とが根底にはあるとはいえ、ある時は田沼改革を、ある時は松平政治を支持したりと次々に世論が移り変わっていきます。

いっぽう、武士階級においては(吉宗に関する上の二つの逸話の通り)緊縮財政こそが幕政のかなめであるとの確固たる認識が広く存在したようです。

この辺りは庶民目線と武家階級目線の違いとして注目に値するかもしれません。

疲れたのでこの辺で。他に書き足すことがあればその都度。